「ただいま」
仕事を終えて帰ってきたアキラは、ドアを開き、部屋の奥へと声を掛けた。少し前までは一人で住んでいた部屋だったが、リンが戻ってからは二人で暮らしている。
リンは今日、源泉と会う予定だと言っていた。だが、そんなに時間が掛かる用件でもないし、帰りはアキラよりも早いだろうと、出て行く前に告げられた。その証拠にドアに鍵は掛かっておらず、部屋の中には人の気配を感じられる。なのに、返ることのない声にアキラは訝しげに眉を寄せた。
「リン?」
奥の部屋を覗き込み、いるはずの人物の名前を呼ぶ。そのアキラの目に、真剣にカメラの手入れをしているリンの姿が飛び込んできた。
「あ、お帰り、アキラ」
アキラの声にようやく気付いたのか、満面の笑みを浮かべたリンが振り向く。今までカメラに向けていた所為か、その笑みは子供のような彩を含んでいた。
「…どうしたんだ、それ?」
アキラはリンに近付きながら、その手の中の物について尋ねる。何となく予想が付いてはいたが、リンの口からは正にその通りの答えが返ってきた。
「オッサンから貰ったんだ。使い古しで良ければやるって。ただし、大事に扱わないならその場で返せって、ムスッとした顔で言うの。オッサンらしいよね」
「ああ…」
よく見れば、アキラはそのカメラに見覚えがあった。一時期源泉のアシスタントのような仕事をしていたことがあったのだが、その時にうっかりそれを落としそうになって、源泉が真っ青な顔で叫んだ姿は今でも鮮やかに思い出せる程だ。元が高い所為もあるのだろうが、よっぽど大事だったのだろう。その後、アキラがそのカメラに触らせてもらうことは無かった。
(よく渡したな…)
何台かカメラを持っている源泉だが、どれも大切に扱っている。おいそれと渡すようなことはしないだろう。ムスッとしていたという源泉の表情が目に浮かび、アキラは思わず口元に笑みを浮かべた。源泉はきっと、無事に帰ってきたリンに何かしてやりたかったに違いない。トシマでリンは小型のカメラを愛用していた。持ち歩きやすさを重視していたのかも知れないが、本格的な写真を撮るなら源泉から貰ったカメラの方が向いているだろう。源泉はリンが写真を撮るのが好きなことを知っていたし(何しろ、トシマではそれでリンと取引をしていたくらいなのだから)、そのこともあっての祝い代わりなのかも知れない。
「良かったな」
「オッサンには悪いけどね。やっぱ、こうしてカメラ持つと嬉しいや」
源泉の心中を把握していたらしいリンは、大事そうにカメラを撫でながら笑って頷く。
「俺のは、あの時に失くしちゃったから」
軽く竦められた肩。口元に浮かぶ苦笑。口にすることに痛みを伴わないわけではないだろうに、努めて明るく喋るリンにアキラは一瞬言葉を失う。
「……そうだな」
リンがその反応を気にする前に、アキラはフッと表情を緩めた。過去の痛みを振り切ろうとするリンに、アキラもまた付き合おうと思う。
忘れることのない痛み――けれど、それは越えてきたものなのだ。
リンの傍らに座ったアキラは、リンとその手の中のカメラを眺める。大事に抱えるその姿は、まるで宝物を持った子供のように思えた。
「あ、そうだ、アキラ。一番最初の被写体になってよ!」
アキラの顔を覗き込み、リンは無邪気な表情で強請る。突然の言葉にアキラは驚き、そして、期待に満ちた蒼い双眸から逃げるように視線を逸らした。
「写真は…」
「嫌いなの知ってる。……けどさ、どうしてもダメ?」
リンにせがまれ、アキラは暫しの躊躇を見せた後、諦めの溜息を吐き出した。源泉が宝物であるカメラを渡したのだ。これぐらい譲歩しなければ怒られるだろう。
「……解った」
「え…? 解ったって…本当にいいの?」
もっと嫌がられるだろうと思っていたリンは、すんなり貰えたアキラからの了承に目を見開いて驚いた。その反応に、アキラの頬がうっすらと染まる。自分らしくない行動に恥ずかしさを覚えたが、前言を撤回したくても、今更リンがそれを許すわけがない。
「でも…俺なんか撮っても面白くないんじゃないのか?」
諦め悪くそんなことを言えば、今度はリンが大仰な溜息を吐き出した。
「最高の被写体が何言ってんの? 大体、撮らせてって言ったのは俺だってこと忘れてない?」
アキラの眼前でわざと顰め面を作ったリンは、一瞬後にはそれを笑顔に変えた。そして、立ち上がり、アキラの手を取って引き上げる。
「そうと決まれば、善は急げ、ってね。屋上に行こう、アキラ。今だったら夕焼けがちょうど綺麗だよ」
誘われるまま、アキラは屋上への階段を、義足をかすかに引き擦るリンと共に上った。
行き着いた先に広がるオレンジ色の空。
眩しさと、そこにある懐かしさに、アキラは目を眇めた。
「ね、アキラ」
呼ばれて振り返った瞬間、カシャッというシャッター音が耳を打つ。驚いて目を見開けば、もう一度その音が聞こえた。
アキラの姿を捉えたリンは、シャッターチャンスを逃すことなく見事な一瞬を捉えることが出来たらしい。ファインダーから外された顔は、満足げな笑みを浮かべていた。
「大成功♪」
そう言って笑うリンに、アキラは肩の力を落とし、近くにある柵へと寄りかかる。
「リン…お前なぁ…」
「だって、これから撮るーってなると、絶対にアキラ身構えちゃうでしょ?」
リンは苦笑しながらアキラに近寄ると、正当な理由を口にした。その言葉に行動パターンを見透かされていることを知り、アキラはばつの悪そうな顔で視線を横へ逸らした。
「俺はさ、自然体のアキラが撮りたかったんだ。結構上手く撮れてると思うよ?」
現像してもいないうちから自信満々で言ってのけ、悪戯っ子のように笑う。そんなリンを目の端に映し、アキラは口元に微苦笑を刻んだ。
「まったく…」
リンは腕を伸ばすと、アキラの身体を引き寄せる。
「リン…」
「暴れないでよ。カメラ落としたら壊れるからね」
目の前で蒼い双眸が笑みを浮かべながらそんな脅し文句を言う。その所為ではないが、アキラはわざと呆れたような溜息を吐き出した後、リンの腕におとなしく身を任せた。
肩口に頭を寄せると、かすかにリンの心音が伝わり、その音にアキラは安堵を覚える。
「…アキラと再会したのも、こんな夕焼けの時だったね」
沈みゆく夕日を見つめ、リンが呟く。同様に感じていたのか、アキラは溜め込んだ想いを吐き出すように頷いた。
「ああ…」
あの奇跡とも思えた瞬間。そして、あの時感じた様々な感情がアキラの胸の内に甦る。
(――あそこから、『今』が始まった)
口にはしなかったはずの想い。なのに、次にリンの口から出てきたのはアキラが考えていたものと同じものだった。
「あの時から……アキラと再会してから、俺の時間は本当の意味で動き出したんだ」
ゆっくりと紡ぎ出される言葉がアキラの胸に染み込み――そして、嬉しさを広げていく。
瞳を上げると、優しい色を湛えた蒼い双眸がアキラを見つめていた。
「…だから、一番最初にアキラを撮りたかった。あの時と同じように新たな出発点をアキラで始めたかったから…」
照れたような声が耳元で囁かれ、その声と、その告白に、アキラの背がピクンと震える。
「リン…」
掠れるような声で名前を呼べば、寄せられた唇がアキラの耳を髪の上から口づけ、言葉の続きを綴った。
「いつでも…始まりの時にはアキラにいて欲しいんだ」
願うような声と共に、アキラを抱き締める腕の力が強まる。アキラはリンの背中に手を回すと、あやすようにゆっくりと撫でた。
「…いるよ」
言い聞かせるように、柔らかな声がリンの耳を擽る。どこか涼やかで、スッと胸に染みいる響きを持つアキラの声――その心地よさに、リンは瞳を閉じた。
「リンが望むなら、俺はずっと一緒にいる……あ、いや、」
アキラは苦笑し、改めて言い直す。
「リンが望んでくれるなら、俺はリンと一緒にいたい」
言い直したのは、自分もそう思っているとリンに伝えたい為だったのだろう。
それを感じ取り、リンは込み上げてくる想いに堪らなくなる。
嬉しいとか、愛しいとか――アキラに対する様々な想いが胸の奥からどんどん溢れ出すけれど、いくら言葉で言ってみても自分の気持ちすべてを表すことは出来そうもなくて、リンは想いを込めて、ただ一言だけ口にした。
「アキラ……好き」
「俺も」
返される言葉は素っ気ないのに、そこにある想いの深さにリンは泣きそうになる。
不器用なアキラだから、こんなことで嘘を吐けたりしない。そこにある想いが本物だからこそ、アキラはこうして頷いてくれるのだ。
(もう…嬉しい気持ちで胸が苦しくてしょうがないよ…)
言葉で表しきれない想いを態度で示すように。
この腕から絶対に離さないと誓うように。
リンはアキラの身体を抱き締める。
「……すっごく、すっごく、す…っごく、好き」
「ああ」
ギュウギュウと抱き締められながら、アキラは金の髪を梳いて頷く。
その優しい感触に甘えながら、リンはとうとう我慢できなくなって口にした。
「……アキラからはちゃんと言ってくんないの?」
拗ねた蒼い瞳が見上げてくるのがおかしくて、アキラは堪らず笑い声を上げ――そして、大きな子供のような、それでいて大切な存在の耳元に囁いた。
「好き、だよ」
少しだけ照れながら告げられた言葉。
柔らかな笑みを掃く口元に、リンは同じような笑みを浮かべると、そっと触れるだけのキスを交わし、瞳を合わせて笑い合った。
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